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Spring Has Come

Spring Has Come

検査~診断の日~始まり

退院時に、通常より若干体重の伸びが悪かった伊吹は、1週間後に改めて体重測定に来るよう言われた。
そして1週間後に計ると、増えたのはわずか30g未満。
母乳だけで育てていたが、ミルクを足すように言われてしまい、また1週間後に来院。
この時は40gちょっと増え、このペースで混合栄養にしておけば大丈夫と言われた。
ミルクの飲み方や飲み具合も、特に気になることはなかった。
むしろ、次男が新生児の頃はもっと飲みが遅く、イライラしたものだったので。
私は所詮母乳の出が悪いのよね、と少し落ち込んだ程度だった。
もちろん、ダウン症の疑いについてのもやもやが晴れる日は全くなかったが。

しばらくして、予約しておいた医療センター・形成外科を初受診した。
まずはそこで“耳の形”のことを相談するよう言われたからだ。
次男の頃以来、久々の医療センター。
これからすっかり馴染みの場所になるとは、ちょっと想像していなかった。

結果、耳の大きさは5歳ぐらいの頃に、大人のそれの大きさの9割ほどになるらしい。
なので手術するとしたら、その頃やった方がいいということだ。

「では、遺伝科に紹介状を書いておきますので予約を入れて下さい」
形成外科医はそう言った。
イデンカ・・・?何だか、如何にもの名称だ・・・
「やっぱりダウン症の疑いがあるんでしょうか?」と私。
「検査結果が全てですので、今は何とも言えません」と医師。
遺伝科受診を予約したその日まで、また更に待つこととなり、
受診日当日。

担当したのは女性の医師、K先生だった。
伊吹を念入りに観察した後
「う~ん、ちょっと心配なので検査しましょう」と言った。
そこでも私は馬鹿のように繰り返し「やはり疑いが?」と訊ね、
K先生もまた「結果を見ないことには」と答えたのだった。

待つこと1ヶ月。
ダウン症関連のホームページをあちこち訪ね、少しでも前向きになれることが書かれていないか、
または伊吹がダウン症にどれだけあてはまるか、あてはまらないか、
憑かれたように調べ始めたのがこの頃だった。
折れ耳が特徴の一種であることを知り、私は泣き出したくなった。
(*そういう子が多いというだけで、ダウン症者の誰もが折れ耳というわけではありません。
 他の特徴にも同じことが言えます。誤解なきようお願いします)
事実、毎日のようにパソコンのモニターと伊吹を見比べ、一喜一憂しては泣き暮らす日が続いた。
夫はそんな私を見て、今からあれこれ調べるのはやめろ、と怒った。
「大丈夫だから!ダウン症なんかじゃないから!」と。
しかし、調べていくうちに私の思いは徐々に変化し、落ち着きを取り戻した。
・・・この子は私の産んだ大事な子だ。
という、ごく当たり前の思いだった。
ダウン症と認めたくはない。だが、こうして生きている。一生懸命生まれてきてくれた子。

そして、診断結果を聞く日が来た。
忘れもしない、平成14年2月12日――生後3ヶ月と24日目。
夫と二人でK先生と向き合って座り、聞くこととなった。
(染色体の図を見せながら)
「伊吹ちゃんの場合は、この21番目の染色体がうまく分離出来ず、
 通常2組のところを3組持っているんですね。
 これは21トリソミー、いわゆるダウン症と呼んでいます」
という内容のことを、はっきりと、しかし言葉を選んで説明してくれた。

「ダウン症」という言葉を聞き、瞬間的に目の前が真っ暗になるのを感じた。
人間、ショックを受けると本当に目の前が真っ暗になるらしい。
真っ暗と言うより、真っ白で何も見えなくなる、そんな感じだ。
・・・やっぱりそうだったんだ。
覚悟は出来ていたつもりだった。それでもかなりこたえた。

夫はK先生に尋ねた。
「治らないんですか?」と。
わずかに声が震えているようだった。
最後まで健常児だと信じたがっていたので、ショックは隠せなくて当然だった。
「医学的に、現代では治せません」とK先生。
それから親の会リストや、医療センター内で行っているDK外来という
ダウン症の赤ちゃんの集会の知らせ、
日本ダウン症協会のパンフなどを手渡された。
色とりどりの折り紙でも見せられているような気分だった。
「ダウン症の赤ちゃんは発育はゆっくりでも、確実に色々なことが出来るようになります。
 どうか気を落とさないで・・・」
というようなことをおっしゃってくれたと思うが、よく覚えていない。

「よし、教習所に申し込みに行こう」
帰り道、夫は私にそう言った。
それまで私は自動車免許を持っていなかった。
しかし、障害のある子がいては病院通いも頻繁になるだろう。
「万一そうだったらお前も運転出来るようにならないとな」
ダウン症の疑いを言われて悶々としていた頃、さらりと夫は話していたのだが
それが実現することとなった。
託児所付きの教習所に通うこと2ヶ月。
私は無事に免許を獲得し、今では忙しく母子で病院通いをしている。
皮肉なきっかけではあったものの、これも何かの縁だったのだと思う。

教習所の申し込みをし、帰ってから最寄の親の会の会長さん宅に電話した。
会長さんは診断を受けてすぐに連絡をしてきたことを嬉しく思うとおっしゃり、
私の複雑な思いや愚痴をよく聞いてくれた。
早速次の定例会に一緒に行くことになり、3月、先輩の親御さんたちと初顔合わせをした。
こうして、私と夫の人生にまた一つ新しいシナリオが出来たらしい。

不思議なのは、K先生から診断を聞いて数時間後には前向きになれたことだった。
逆に、ダウン症だと分かり肩の荷が下りたかのようだった。
これも色々と情報を集めておいたお陰なのか、
それとも春歌のことがあって、強くなれたのか。
未だに(そして今後も)毎日が一喜一憂、前進後退を伊吹と共に繰り返している。
はっきりと言えることは、伊吹には明日があるということである。

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